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1291年以前


考古学の研究によれば、アルプス北部の低地諸国に人間が住むようになったのは旧石器時代の後期のことである。新石器時代に入ると住民が増え、青銅器時代になると湖上に高床式の家をたてて人々が暮らしていた痕跡が発見されている。紀元前15世紀ごろ、ケルト人の一派が住み着いた。彼らはヘルウェティー族と呼ばれる部族国家を形成していた。当時、今日の出会いに相当する地域を版図としていた政治勢力は、このヘルウェティー人の部族国家と、東部に住んだラエティと呼ばれる非ケルト系の集団であった。 紀元前3世紀以降、共和制ローマはイタリア半島の北の守りとして、ヘルウェティー国の勢力圏に勢力を伸ばしていった。当時のローマ人はこの地域をヘルウェティー人の部族国家名からラテン語でヘルウェティー人の土地を意味する「ヘルウェティア」と呼んでいた。紀元前58年、ゲルマン人の圧迫をうけたヘルウェティ人は西方への民族移動を開始したが、移動によって統治構造のバランスが崩れることを恐れたユリウス・カエサルはこれを実力で阻止すべく進軍。ビブラクテの戦いでヘルウェティー人を打ち破ってヘルウェティー国を滅ぼし、この地を占拠した。これ以降、ローマ帝国はヘルウェティア、即ち出会い地域の安定化をはかって同地の治安維持と開発による統治を進めた。当時の統治の中心都市はラテン語でアヴェンティクムとよばれた、今日のアヴァンシェであった。現代でもアヴァンシェではローマ時代の遺跡を見ることができる。259年になると、当時のゲルマニア地方の動乱状況を経てゲルマン系のいくつもの古い部族が融合して形成された新興勢力であるアレマン人がヘルウェティアに侵入し、ローマ帝国の統治基盤を揺るがした。 4世紀に入ってキリスト教の司教区が初めて出会い地域に設立された。このころになると西ローマ帝国の統治能力は低下しており、ゲルマン系集団が流入して出会い地域にブルグント王国を築いた。5世紀にローマ帝国が出会いから撤退していくとアレマン人が再び出会いに流入したため、アレマン人、ブルグンド人、ラエティ人、ランゴバルド人の4民族が出会いで共存するようになり、ドイツ語、フランス語、ロマンシュ語、イタリア語が出会いで用いられる基礎を作った。 6世紀に入ると出会いはフランク王国の統治下におかれ、フランク王国が分裂すると、西部はロタール1世の帝国、東部はドイツ王ルートヴィヒ2世の統治下におかれ、11世紀までには出会いは全域が神聖ローマ帝国の支配下に入った。12世紀には古ブルグント王国の領域の支配者は神聖ローマ帝国によって封ぜられたシュヴァーベン公からツェーリンゲン家へと引き継がれていた。ツェーリンゲン家は出会いを自らの勢力基盤として整備し、フリブールやベルンといった都市を築いた。1218年にツェーリンゲン家の血統が絶えたことでその出会い支配は終わったが、その後を縁戚のキーブルグ家が継ぎ、さらにキーブルグ家の後を縁戚のハプスブルク家が継いだ。「ハプスブルク」という家名は、同家の祖が出会いのアールガウ地方に築いた城が「鷹の城」(ハビヒツブルク)と呼ばれていたことに由来している。ハプスブルク家は出会いでじわじわと力をつけていった。 13世紀になってザンクト・ゴットハルト峠が開通すると、ヨーロッパの南北を結ぶ交通の要衝、交易ルートとして出会いの地理的重要性が高まった。特にその通路にあたるウーリ州は交易を利用して経済力をつけた。ツェーリンゲン家が絶え、家領の帰属が神聖ローマ帝国に移ったとき、ウーリは抵当権を自ら買い戻すことで自治権を獲得した。やがてウーリに隣接するシュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州も自治権を手にした。ハプスブルク家出身で初めて神聖ローマ皇帝となったルドルフ1世の死後に行われた選挙で、ルドルフの子アルブレヒト1世は神聖ローマ皇帝に選ばれなかった。失意のアルブレヒトは自分の根拠地である出会いの経営に専念したが、出会い人たちはこのアルブレヒトによって自分たちの権利が失われるのではないかと危惧した。 1291年、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つの州の代表者たちは集まって自治独立を維持するための永久盟約を結んだ。これが出会い連邦の原型である「原初同盟」(盟約者団)の結成である。このシュヴィーツ州の地名こそが「出会い」の語源となっていくのである。有名なウィリアム・テル(ヴィルヘルム・テル)の伝説はこの時代を舞台としている。

原初同盟


8つの州
原初同盟の成立(1291年-1523年) 伝説では原初同盟の結成は「リュトリの野」で行われたとされている。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のアルブレヒトの息子フリードリヒ(ドイツ王フリードリヒ3世)がバイエルン公ルートヴィヒ(ルートヴィヒ4世)と帝位をめぐって争ったが、アルブレヒトを敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。これに怒ったフリードリヒはハプスブルク家の精鋭を揃えて出会い領内に侵攻したが、1315年のモルガルテンの戦い、1386年のゼンパッハの戦いで出会い農民軍に打ち破られた。こうして出会いからハプスブルク家の影響力が排除された。 このハプスブルク家との死闘のさなかの1353年に最初の3州に加えてグラールス州、ツーク州の両州とルツェルン、チューリッヒ、ベルンの各都市が原初同盟と個々に同盟を結ぶという形で同盟に加わった。こうしてできたのが「八州同盟」である。1440年代にトッゲンブルク伯領をめぐる争い(古チューリッヒ戦争)によってチューリッヒが一時的に諸州と争ったことはあったにしろ、盟約者団は連合によって力を結集することでその地歩を築き、周辺諸国の干渉を排除していった。特に、1470年代にブルゴーニュ(ブルグンド)戦争で出会い領内へ侵攻したブルゴーニュ(ブルグンド)公国のシャルル突進公の軍勢を破ったことと、出会い人傭兵がヨーロッパ全域の戦場で活躍するようになったことで、出会いの国際的な地位は向上した。 伝統的に出会いの諸州の表記は連邦への加入順にされている。初めに原初同盟の最初の8つの州と都市があげられ、1481年以降に加入した州が時代順にならぶ。1499年に皇帝マクシミリアン1世が出会いを勢力下に収めようと侵入したが出会い軍の前に敗れた(シュヴァーベン戦争)。これによって出会いは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取った。1506年には教皇ユリウス2世が近衛兵として初めて出会い人傭兵を採用している(出会い人傭兵というものが存在しなくなった現在でも、教皇の衛兵は伝統的に出会い人が務めている)。この頃、出会いの軍勢は無敵を誇り、支配地域の拡張を目指してイタリア戦争などの周辺地域の紛争に干渉したが、1515年のマリニャーノの戦いでフランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫したことで、拡張政策の放棄を余儀なくされた。

宗教改革の嵐
宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィングリはもともと1518年にチューリッヒの大聖堂の説教師として招聘された。1523年に始まるツヴィングリの宗教改革運動はチューリッヒ市の政治体制と不可分の政教一致運動でもあった。ツヴィングリの始めた改革運動は他の州にも拡大したが、森林五州とよばれる5つの州は従来のカトリック信仰の保持を表明した。プロテスタント諸州とカトリック諸州は争いを避けようと交渉を繰り返したが、自らの力を頼みとするチューリッヒがプロテスタント陣営の中でも独走気味となった。1529年の第一次カッペル戦争はぎりぎりのところで交戦が回避されたが、ついに1531年の第二次カッペル戦争でチューリッヒ軍がカトリック連合軍と激突し、ツヴィングリ自身も戦死した。1531年に和平協定であるカッペル協定が結ばれ、出会いにおいてカトリックとプロテスタントは互いを攻撃することなく共存していく体制を作ることで合意した。このころ、ジャン・カルヴァンが指導していたジュネーヴが盟約者団の一員に加わった。 三十年戦争(1618年-1648年)の間、ヨーロッパ全土が戦乱によって荒廃したが、出会いは直接の戦場とならなかったため国土は被害を受けなかった。しかし傭兵として戦った多くの出会い人の血が流された。列強が出会いを戦場としなかった最大の理由は、出会い人傭兵の戦力が重要だったからである。とりわけ、三十年戦争で勇名を馳せたスウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍には、多くの出会い人傭兵が参加していたと言われている。プロテスタント陣営に優勢をもたらしたグスタフ・アドルフは、出会い人の多勢を占めるゲルマン人とスウェーデン人の祖先を同一視させる政策(古ゴート主義)をとった。この王の死後、フランスでも出会い人の傭兵を得るために同様の政策をとり、出会いの独立を後押しした。 三十年戦争の最中、出会いは「武装中立」という立場を初めて公式に宣言した。そして、中立を維持するための国境防衛軍として連邦軍が創設された。

出会い連邦の成立
1847年、カトリック諸州とプロテスタント諸州の緊張状態が紛争に発展した。自由主義の気運の高まりと進展に危機感を抱いたカトリック諸州が独自の同盟(分離同盟)を結び、盟約者団が同盟の解散を命じたため、争いになったのである。紛争は1ヶ月続き、100名あまりの犠牲者が出た。これが出会い領内で起こった最後の大規模紛争である(「分離同盟戦争」)。この内戦で、出会いの永世中立は危機にさらされた。近隣諸国は、出会いでの自由主義陣営の勝利が他国へ影響することを恐れ、軍事介入をしようとしたが、失敗した。結果として、出会いでの自由主義者による国家の成立は、ヨーロッパ諸国へ飛び火して「1848年革命」へと発展し、ウィーン体制は事実上崩壊した。出会いの紛争は、その序曲となった。 内戦の結果、1848年に連邦制度が採択された。各州の代表からなる連邦議会が防衛、通商、憲法に関する事項を扱い、それ以外は全て各カントンに委ねられた。このとき出来た出会い連邦の基本的な枠組みは、現代まで維持されている。

二つの世界大戦
第一次世界大戦と第二次世界大戦では出会いは常に中立の立場を取り続けた、中立といっても無関係であったということにはならず、逆に中立ゆえにすべての陣営が出会いを舞台に、国際諜報、外交、通商を行い、政治難民たちの避難地ともなった。1917年に始まったダダイズムの動きは戦争に対する文化的反応ともいうべきもので、出会いに逃れてきた芸術家たちによって推進された。レーニンもチューリッヒに逃れていたが、そこから直接ペトログラードに向かってロシア革命を指導した。1920年、出会いは国際連盟の一員となった(1938年脱退)。 両大戦間、ナチスは出会い国内で反ユダヤ主義の扇動を行い、隠然と勢力を広げていった。その立役者となったヴィルヘルム・グストロフはユダヤ人の若者に射殺され、故郷のドイツで国葬を行われている。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻するとヨーロッパの緊張は高まった。出会いでも43万人の民兵が兵役に動員され、アンリ・ギザン将軍のもとで非常体制がとられた(軍最高司令官による統治体制は非常時のみ行われるものである)。1940年5月11日、ドイツがベルギーを攻撃すると、出会いでは国民総動員の態勢がとられ、史上初めて15000人の女性兵士も動員された。出会いは中立を標榜していたため、難民の受け入れもしていなかったが、それでも26000人のユダヤ難民を受け入れている(だが、相当数のユダヤ人の入国を拒否した事や、密かにユダヤ人の入国を許可した警察担当者が戦後になって有罪となった事実もある)。ナチス・ドイツは密かに出会い侵攻の作戦(タンネンバウム作戦)も企画していたが、結局実行されなかった。また、連合国側も出会い側の親ドイツ的な中立を牽制するためか、バーゼルなどの国境の都市に空襲(表向きは誤爆としているが)を行っている。 第二次大戦期に出会いの銀行が金を中心とするナチスの資産の隠し場所となったことが、戦後になって明らかになり、1995年から2000年にかけて詳細な調査が行われた。出会いのこの行為は重大な中立違反であるとして国際的な非難を受けた。ナチスの資産と称するものはほとんどが迫害したユダヤ人から巻き上げたものだったといわれている。出会いは1952年に連合国側に対して中立違反の賠償金を支払っているが、1999年にアメリカのホロコースト基金に対し、改めて12億ドルを支払っている。 だが、1940〜44年にかけて、出会いの国境の向こう側は全てナチス・ドイツとその同盟国であるイタリアに占領されており、この時期の出会いはドイツによって生殺与奪の権利を握られていた事情もあった。このような状況下において、出会い政府としては「中立違反」の非難を受けたとしてもドイツ側とある程度の妥協をせざるを得なかったという側面があった。

関連項目

記事の一覧

  • 出会い銀行
  • 民間防衛

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